万葉集と私ー令和元年に寄せてー

僕が初めて万葉集に触れたのは中学生か高校生の頃です。日本史の授業だったのか、古文の授業だったかは忘れてしまいました。野趣にあふれた万葉集、技巧的な古今和歌集と対比され説明されたのを覚えています。

僕をとても引きつけた万葉集の歌は山上憶良の歌でした.

―子等を思ふ歌一首、また序
  瓜食(は)めば 子ども思ほゆ 栗食めば まして偲はゆ
  いづくより 来りしものぞ 眼交(まなかひ)に もとなかかりて
  安眠(やすい)し寝(な)さぬ(802)

反歌

  銀(しろかね)も金(くがね)も玉も何せむにまされる宝子にしかめやも(803)

―山上臣憶良が宴より罷るときの歌一首

  憶良らは今は罷らむ子泣くらむ其も彼の母も吾を待つらむそ(337)

ほんとにほのぼのとしますよね.

山上憶良は「梅花の宴」の主催者・大伴旅人とともに筑紫歌壇を代表する歌人ですが,この当時は70歳前後でした.かなり高齢ですね.

ほのぼのとした歌の他にこんな歌もあります.ただ,本人は国司などお役人です.

ー貧窮問答の歌一首、また短歌
(甲)風雑(まじ)り 雨降る夜(よ)の 雨雑り 雪降る夜は
  すべもなく 寒くしあれば 堅塩を 取りつづしろひ
  糟湯酒(かすゆさけ) うち啜(すす)ろひて 咳(しはぶ)かひ 鼻びしびしに
  しかとあらぬ 髭掻き撫でて 吾(あれ)をおきて 人はあらじと
  誇ろへど 寒くしあれば 麻衾(あさふすま) 引き被(かがふ)り
  布肩衣(ぬのかたきぬ) ありのことごと 着襲(そ)へども 寒き夜すらを
  我よりも 貧しき人の 父母は 飢ゑ寒からむ
  妻子(めこ)どもは 乞ひて泣くらむ 
  この時は いかにしつつか 汝が世は渡る

(乙)天地は 広しといへど 吾(あ)が為は 狭(さ)くやなりぬる
  日月は 明(あか)しといへど 吾(あ)が為は 照りやたまはぬ
  人皆か 吾(あ)のみやしかる わくらばに 人とはあるを
  人並に 吾(あれ)も作るを 綿も無き 布肩衣の
  海松(みる)のごと 乱(わわ)け垂(さが)れる かかふのみ 肩に打ち掛け
  伏廬(ふせいほ)の 曲廬(まげいほ)の内に 直土(ひたつち)に 藁解き敷きて
  父母は 枕の方に 妻子どもは 足(あと)の方に
  囲み居て 憂へ吟(さまよ)ひ 竈には 火気(けぶり)吹き立てず
  甑(こしき)には 蜘蛛の巣かきて 飯(いひ)炊(かし)く ことも忘れて
  ぬえ鳥の のどよび居るに いとのきて 短き物を
  端切ると 云へるが如く 笞杖(しもと)執る 里長(さとをさ)が声は
  寝屋処(ねやど)まで 来立ち呼ばひぬ 
  かくばかり すべなきものか 世間(よのなか)の道(892)
短歌
  世間を憂しと恥(やさ)しと思へども飛び立ちかねつ鳥にしあらねば(893)
  富人の家の子どもの着る身なみ腐(くた)し捨つらむ絹綿らはも(900)
  荒布(あらたへ)の布衣をだに着せかてにかくや嘆かむ為むすべを無み
山上憶良頓首謹みて上る。(901)

 えらく感心し,文庫版の万葉集を買ってきて読んだりしていました.

 万葉仮名がずらりと並んだ本文は漢文とも違い、何か近寄りがたいものを感じました。

 

次に万葉数に触れたのが大学生のころ、興味のある学生らが集まっての行っていた「万葉集を読む会」でした。大学も異なり、学年も異なる者たちがが集まり、万葉集を読み、自分の思ったことを言い合う会でした。ここでは恋愛にかかわる歌を主に読んだと思います。朝を迎え、物憂い雰囲気に浸っている万葉の世界の人を感じました。テキストは岩波文庫の「日本古典文学大系万葉集一〜四」でしたが一でお終いになってます.

 

そして、3番目に出会ったのは梅原猛の「水底の歌―柿本人麻呂論」です。はまりました。柿本人麻呂の力強い挽歌に惹かれました。もともと、学生の頃から歴史、特に古代日本史が好きで、飛鳥、斑鳩、山の辺の道などを訪れ、古墳、古寺巡り三昧でした。水底の歌で語られる、藤原不比等大伴旅人(多比等)の権力闘争、勝者・不比等と敗者・旅人、そして人麻呂の死を(哲学的に)論証していて、専門家ではない僕をすっかり魅了してしまいました。

 筑紫歌壇は権力闘争に敗れた,大伴旅人山上憶良を中心とした歌壇というのが梅原説です.また,不比等側の歌人山部赤人です(梅原猛「さまよえる歌集 赤人の世界」).赤人の小倉百人一首にも選ばれている歌,良いですね.

―山部宿禰赤人が不盡山を望てよめる歌一首、また短歌
  天地(あめつち)の 分かれし時ゆ 神さびて 高く貴き
  駿河なる 富士の高嶺を 天の原 振り放(さ)け見れば
  渡る日の 影も隠(かく)ろひ 照る月の 光も見えず
  白雲も い行きはばかり 時じくそ 雪は降りける
  語り継ぎ 言ひ継ぎゆかむ 不盡の高嶺は(317)
反歌
  田子の浦ゆ打ち出て見れば真白にぞ不盡の高嶺に雪は降りける(318)

 

大伴旅人山上憶良山部赤人らは万葉集中期を代表する歌人たちです.梅原説で考えると生臭さを感じますが,憶良のほのぼのとした歌が,慈しむ様な歌が違った世界を見せてくれます.

この時代.日本が激動の時代を経て漸く天武天皇持統天皇らにより律令体制が整った時代です.陰の立て役者が藤原不比等(梅原説).

それまでの時代を中国の史料でみると以下のようになります.

 

 

 

後漢光武帝建武中元2年・57年) 倭の奴国(倭国の極南界) 大夫

後漢・安帝(永初元年・107年) 倭の奴国(怡土国) 倭国王帥升

後漢・かん帝(147−167),霊帝(168−188)倭国大いに乱れる

魏・明帝(景初2年・239年)帯方郡太守に 卑弥呼 難升米を派遣

魏・少帝(正始元年・240年) 太守 倭国へ建中校尉を派遣

     正始4年・243年 倭王 使者を派遣

     正始6年・245年 難升米に黄幢を送る

     正始8年・247年 卑弥呼 狗奴国対策で援助要請

劉宋・高祖武帝(永初2年・421年) 讃

   太祖文帝(元喜2年・425年) 讃

                  珍(賛の弟) 使持節都督倭・百済新羅任那・秦韓・慕韓六国諸軍事・安東大将軍倭国王と自称 安東将軍倭国王に叙される 倭隋ら13人を叙す.

   太祖文帝(元喜20年・441年) 済 安東将軍倭国王に叙される.

   太祖文帝(元喜28年・451年) 済 使持節都督倭・新羅任那加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事・安東将軍倭国王に叙される.23人も軍郡に除す.

                  済死して,興(世子) 

   世祖孝武帝(大明6年・462年) 世子興 安東将軍倭国王に叙される

                   興死して弟武立つ 使持節都督倭・百済新羅任那加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事・安東大将軍倭国王と号す

   順帝(昇明2年・478年) 武 使持節都督倭・新羅任那加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事・安東大将軍倭王に除す.

 

随・高祖文帝(開皇20年) 阿毎多利思比孤 阿輩雞彌

隋・煬帝(大業3年・607年) 阿毎多利思比孤 「日出ずる處の天子,書を日没する處の天子に致す,恙無きやや,云々」

隋・煬帝(大業4年・608年)文林郎裴世清を倭国へ派遣